溝江達英【公式】

言語に正しさを押し付ける苦しみ

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やりたいことをやろう。言いたいことを言おうと日本語で言っているうちは共感も得られるかも知れないが、これが別な言語だったら、そういう言い方そのものが、違和感を生む。

日本語的だと、いかにも行動しなければ思い描く自由が手にはいらない感覚を煽りに煽って、自己啓発界は大合唱で行動しよう!をモットーにするが、意外とBE YOURSELF の感覚で、行動よりも状態重視にフォーカスすればそこまで気負わなくてもいいんじゃないの?と思ってしまう。

普段使っている言語記号そのものが思考を窮屈にしてしまうことがあるのではないか。そんなことをふと最近考えてしまう。

日本語の価値を12歳の言語と評したマッカーサー元帥。

屈折、活用のある言語=美的言語との価値観を押し付けてきた。また語彙の種類が豊富であればあるほど言語は美しい。それもまた言語美化論を後押ししてきた。その呪縛から逃げ切れていない最近の日本語。カウンセラー、セラピスト、ヒーラー、コンサルタント、アドバイザー…いつの間にか言葉が意味の詰まっていない空の入れ物に見えてくる。

自国語が簡単だと言われれば傷つく自尊心が母語話者にある。

フランス語に至っては、明晰ならざるものはフランス語にあらずをモットーに国を挙げて懸賞論文が書かれた。正しい日本語を!と叫べば、よほど変人でない限り、正しい日本語っていいよね!と同調し、反論する人はまずいない。母語が正しく使えていないということはそれを毎日使っている私自身の否定になるからだ。

吉本隆明は言語にとって美とは何かを問い、マックス・ミューラーは混成言語論を完全否定した。言語など混じりあってはならないと言った。外来語なんてもってのほかだと言った。外来語こそ異物混入であり、不純な言語という強烈な呪縛があった。まさに、混ざるは汚いである。

言葉は混成してはいけない???

じゃあ言葉を話す人そのものが交じり合ってはいけない???

この疑問の解決に挑むべく、神聖化される純粋言語論のタブーにモノ申す言語学者がいた。

彼の名はフーゴシューハルトである。シューハルトは混成言語という概念を持ち出し、言語は混じりあって当たり前、純粋言語など夢物語であって、人が人に影響を与え与えられるように、言語も干渉し干渉されるのはごく自然なことであると結論づけた。

不純こそ言語という有機体の生命原理だと説いた。

どうしても人は言語に清楚な価値観を埋めたがってしまう。まるで売り出し中の清廉潔白風なアイドルでも見るように。

正しい何かを話そうと”純粋”を意気込んでしまう呪縛こそが、萎縮して話せないを生み、言いたいことを言いましょう行動論の素地になってしまっている気がする。

 

 






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Dr.Tatsuhide Mizoe

溝江達英

言語をこよなく愛し、学んだ外国語は20ヶ国語以上にも上る国際言語学者。カナダ・ラヴァル大学にて、講義をフランス語で行い、受け持つ授業は北米最多クラスの年間270コマ超の、超人気の言語学教官として活躍中。

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